大阪心斎橋の喧騒の中で、ひときわ異彩を放っていたのは、小さな路地裏にたたずむ古びた喫茶店だった。薄暗い店内は、タイムスリップしたかのような錯覚に陥り、時が止まったかのように静寂に包まれていた。
この喫茶店の常連客だった私は、ある冬の夜、いつものようにカウンター席に座った。マスターは相変わらず無口で、泡を立てたコーヒーをそっと目の前に置いた。
──「今日は寒いですね」
私はマスターに話しかけた。マスターは「そうですね」と一言だけ返した。その短い会話が、この静寂を破る唯一の音だった。
私は窓の外を眺めた。通りを行き交う人々や車のヘッドライトが、雨に濡れた路面で幻想的な風景を描き出していた。
──ふと、私の視線は向かいのビルの一角に留まった。ひときわ明るい照明が、薄暗い路地に輝いていた。近づいてみると、それは小さなバーだった。
私は好奇心に駆られてドアを開けた。店内は薄暗く、カウンターには数人の客が座っていた。私は空いていた席に座り、マスターにビールを注文した。
──カウンターの隣に座っていた初老の男性が、私に話しかけてきた。彼は地元の人で、このバーに通っていたという。
男性が言うには、このバーではかつて、ある事件があったのだという。それがどのような事件だったのかは語られなかったが、男性の言葉にはどこか不気味さが漂っていた。
──私はその話を聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。この路地裏には、私には見えない何かが潜んでいるような気がした。
ビールを飲み干し、私はバーを出た。雨は止み、路地裏は再び静寂を取り戻していた。しかし、先ほど感じた不気味さは消えずに残っていた。
──私は喫茶店に戻り、マスターにコーヒーの代金を払った。マスターは何も言わず、そっとお釣りを渡した。
私は店を出ると、路地裏をあとにした。心斎橋の喧騒が再び聞こえてくる中、私は振り返り、あの古びた喫茶店を見た。そして、私はあの路地裏で起こったとされる事件の謎が、永遠に解けないことを悟った。
──あの夜以来、私はあの路地裏を訪れることはなくなった。しかし、今でもあの薄暗い喫茶店と、男性の不気味な話のことを思い出すことがある。
心斎橋の喧騒の中で、ひっそりと佇む路地裏には、きっとまだ見ぬ物語が隠されているのだろう。