藤原隆家 勢いがありすぎる源氏の隆盛を心配した公卿




平安時代中期、藤原氏が摂関として権勢を誇った時代。その中でも藤原隆家は、源氏の隆盛を心配したという人物でした。
彼は、冷泉天皇の皇子を擁立して源氏を牽制しようとしたり、一条天皇の中宮定子の死に関与した疑いを持たれたりしています。また、刀伊の入寇では大宰府権帥として活躍し、略奪を阻止しました。

藤原道長の甥として、エリートの道を歩む

隆家は、藤原道長の甥に生まれました。父は道長の兄・道隆で、母は高階貴子でした。幼い頃から聡明で、文章や和歌に長けていました。
18歳で従五位下に叙され、21歳で参議に任じられます。その後、権中納言、権大納言と昇進を重ね、32歳で正二位中納言に任じられました。

冷泉天皇の皇子擁立による源氏牽制

隆家は、藤原氏の権勢を脅かす源氏の隆盛を心配していました。そこで、冷泉天皇の皇子・居貞親王を擁立して源氏を牽制しようとしました。
しかし、この計画は道長に阻止され、隆家は失脚させられます。後に道長の許しを得て官職に復帰しましたが、権勢を取り戻すことはできませんでした。

一条天皇の中宮定子の死に関与?

一条天皇の中宮定子は、隆家の姉でした。定子は藤原道長の娘で、隆家とはとても仲良しでした。
しかし、定子は24歳の若さで亡くなります。隆家は定子の死に関与した疑いを持たれ、ますます道長との関係が悪化しました。

刀伊の入寇で大宰府権帥として活躍

1019年、朝鮮半島から刀伊の海賊が九州に侵入しました(刀伊の入寇)。隆家は、大宰府権帥として九州の防衛にあたりました。
彼は、迅速に軍を集めて海賊を迎え撃ち、略奪を阻止しました。この功績により、隆家は従一位太政大臣に叙せられます。

源氏の隆盛は止められず

隆家は、源氏の隆盛を阻止しようとしましたが、最終的には成功しませんでした。源氏は、頼通、頼義、義家ら有力な武将を輩出し、平安時代後期には武家政権を樹立します。
隆家の心配は現実のものとなり、藤原氏は源氏に取って代わられたのです。

藤原隆家は、平安時代中期に活躍した公卿でした。藤原氏の権勢を維持しようとする彼の努力は実りませんでしたが、刀伊の入寇で活躍するなど、その能力は高く評価されています。